山形合戦をテーマとした城巡り
第三弾、山形合戦をテーマとした城廻です。
山形合戦・・・と言われてもピンとこないかもしれませんが、西暦1600年、天下分け目の関ヶ原の合戦の裏側で、羽州においても合戦がありました。西軍方、五大老の一人で関東管領の家柄を継承し、さらには120万石を領する上杉景勝(実際の総大将は懐刀の直江山背守兼継)と、東軍方、清和源氏足利流の血統と羽州探題の家柄を誇るものの、たかが24万石の最上義光。家柄も戦力も圧倒的に上杉有利ですが、北の大地でも天下の行く末に関わる凄惨かつギリギリの戦いがあったのです。
歴史に興味のある方ならまず間違いなくご存知の関ヶ原の合戦。徳川家の天下を狙う徳川家康(五大老筆頭。当然、戦の名目は豊臣家のため)と、豊臣秀吉恩顧の武将、元五奉行の石田三成との合戦が慶長5年(西暦1600年)に関ヶ原という、今の滋賀県と岐阜県の境あたりでありました。両者とも、豊臣家の家臣としての立場での戦いとなりますが、いずれが仕掛けたのか。・・・直接的には三成となりますが、そう仕向けたのは家康です。
家康はまず、目障りな上杉景勝に二心あり、と糾弾し、それに対して実直、無骨な家風である上杉家当主景勝は家臣直江兼継に「無礼きわまる。やるというなら受けて立つぞ(私なりの意訳)」という返書を書かせます(世に言う直江状)。家康はしてやったりと、東海道筋の大名などを懐柔し引き連れて上杉討伐に出ます。ところが、小山(現栃木県小山市)あたりまで進軍したところで、西が手薄となったと三成挙兵! それに対して家康が諸将を集めて小山で軍議を開いたところ、家康に言いがかりをつけられた上杉に同情し、また、三成憎しの大名が多く、まず三成を討つべき、という結果になります(これも家康の思惑通り)。
で、家康率いる東軍は西上していくわけですが・・・取り残されたのが奥羽の諸将。伊達政宗は上杉領の白石城を攻めており、最上義光は南部氏などの諸将を従えて米沢を攻める直前でした。特にあせったのがすでに城攻めをしていた政宗。白石城を上杉に返して和睦しました。義光は、まだ攻めていませんが、奥羽諸将を引き連れての米沢攻めの大将役。しかし、家康が西上した時点で全員自領に帰っていきました。上杉氏は、自分を攻めるつもりの者を成敗するという大義名分を得、そして弱い者を叩く、という戦略の基本どおり、義光を攻めることになりました。
また、そのような表面的なことだけでなく、上杉が最上を攻めたい理由がありました。当時、上杉領は大まかに言って、福島県会津地方と中通地方、山形県庄内地方、そして佐渡ヶ島になります。佐渡ヶ島もさることながら、それなりに広い庄内地方と主たる会津地方は直接つながっていません。天下が定まった太平の世なら不便なりに問題は少ないでしょうが、火種がある以上、飛び地は問題が大きくなります。そのため、どうしても地続きにしたくなるのは必定。そして、決して貧しくはない最上領(当時、山形城下は奥羽一の都市であったらしいです)はのどから手が出るほど欲しい土地でもあったのです。
ということで、最上(24万石)VS上杉(120万石)の合戦が始まったのです。
ということで、山形合戦の日程表から多少抜粋引用してお城をご紹介します。
9月8日・・・上杉軍の先発隊が米沢城(山形県置賜地方の中心) を出発 上の日程からしても分かるとおり、直江兼続は最上義光よりも1日早く西軍敗北、そして自身の撤退を決定しています。この1日が大きな違いを生んだのでしょう。また、上杉軍の消耗激しく士気に衰えがあったとしても、米沢を落とすことはほぼ不可能と考えられるでしょう。
最上義光は南は自領から追い出したもののそれ以上の深追いはせず、孤立した庄内地方、最上に敵対する雄勝(秋田県内陸南部)の雄、小野寺勢の叩くことにしました。
その結果、庄内地方の上杉の勢力はすべて最上の支配下に。小野寺氏はその支配地の多くを奪われ、結局、翌年石見国に流されることとなりました。その後、徳川幕府の国替えなどの整理が行われ、最上氏の領地は、現在の置賜郡を除く山形県全域と秋田県由利本庄市、計57万石となりました。ここに至り、南北朝期に最上氏の祖、斯波兼頼入部以来最大の版図を得、山形城も日本有数の大城として整備されました。
これら戦の結果、最上氏は公称57万石、その後の新田開発の結果か、推定(自称?)100万石の大大名となりました。しかし、彼は後継者を育てることや、体制の近代化はあまり得意ではなかったのでしょう。後継者争いと家臣たちの分裂の争いによって最上氏は近江大森1万石(城は持てず、大森陣屋に居する。遺構は移築門だけのようだが、いずれ訪問してみたい)に改易、そして当主の早世に伴い幼少の義智擁立を理由に5,000石に減封され、大名ですらなくなってしまった(義智は一代限りの高家の扱い、その後は交代寄合)。最上義光死後わずか17年後のことであった。