戸沢氏をテーマとした城巡り

ためしに、テーマある城巡りの記録を書いてみようと思います。第一回目として、戸沢氏(明治まで、現在の山形県新庄市を中心とした戸沢藩の藩主)を取り上げます。

※注意点
・訪城は別時期に行っており、一連の旅行ではありません。
・歴史的解説を試みておりますが、正確かどうかを問わないでください。
・試行中のため、コンテンツはまだまだ未整備です。徐々に整備する予定です。

1.戸沢氏の興り(滴石城)

 戸沢氏は平国香から分かれた桓武平氏で、源頼朝による奥州征討の後、その戦功によって雫石を賜って大和国から入部したと言われております(戸沢家の家譜によれば)。しかし、それを証明する史料はなく、奥州藤原氏の奥州治世の頃の滴石(当時の表記。現在は雫石)の領主であり、頼朝の奥州征伐時に藤原氏側につかなかったため鎌倉幕府に存続を許された、とする説の方が現実に近いかもしれません。なお、鎌倉時代には滴石氏を称しているようですが、後に居住地の「戸沢邑」にちなみ戸沢氏を名乗るようになりました。
 さて、鎌倉時代、地方の小領主として「滴石城」を築城して当地を治めていた戸沢氏ですが、奥州北部(岩手県北部、青森県のあたり)の実力者は甲斐源氏の南部氏です(南部氏そのものは現在の山梨県南部町にいたようで、代官を派遣していたようです)。戸沢氏は一族存続のため南部氏の配下となっていったようです。
 その後時代が下り、鎌倉幕府と朝廷との争いが勃発すると、南部氏は鎌倉幕府ではなく後醍醐天皇側につき、戸沢氏もそれに従ったようです。そして、全国的にもそのような傾向にあり、騒乱の結果、政権が鎌倉から京に移りました(建武の新政)。しかし、後醍醐帝の治世には問題が多く、足利尊氏の離反により南北朝時代が訪れます。そのときの南部氏の当主師行はというと、南朝方の重臣北畠顕家の配下として働き、自身の知行地として所領する奥州に赴きます(八戸市の根城築城の頃)。北朝方も足利系源氏の名門斯波氏を大崎(現宮城県大崎市)を中心に配置し対抗します。詳しいことはさておき、結果として奥州では北朝方が優勢となり、北畠顕信が一時滴石城で南朝勢力の盛り返しを図るもののかなわず、出羽国へと移っていきました。戸沢氏はと言えば、ほぼ時を同じくして庶流を残し羽後国の北浦へと移っていったといいます(滴石城は北朝方である斯波氏が入城したらしい)。なお、北浦に移った戸沢氏は北朝方となったようで、奥州の南朝方の要である南部氏とのなんらかの因縁もあるかもしれません


2.戸沢氏の北浦転出後(宝仙台城、門屋小館城、門屋城)

 最初に戸沢氏が入部した城が「宝(鳳)仙台城」(位置調査中)と言われています。その後「門屋小館城」(位置不明)を経て「門屋城 」を築きそこを本拠と定め領内の整備を進めていったようです。
 さらに時代が下り戦国乱世となると、奥羽も乱れます。戸沢氏の周りには南部氏、小野寺氏という、戸沢氏を大きく上回る勢力がありました。そして、南部氏は西進を、小野寺氏は北進を図りました。狙うは仙北郡平野部。両氏は激しく戦い、結果としては小野寺氏が仙北への影響力を強めました。それに対し戸沢氏は北浦を動かず、両氏に対しては中立であったようです。


3.戸沢氏の角館進出(角館城)

 南部氏と小野寺氏の争いをわき目に、直接関係のない地に居する戸沢氏は国力増強に努めていました。近隣の仙北小領主(国人)達と姻戚関係を結び、「平家の末裔」を称する戸沢氏は徐々に戦国大名化し、彼らを配下に置くようになっていきました。そして十分な戦力を蓄えた戸沢氏は「角館城 」(旧称:小松山城)へ進出します。
 その後、戸沢氏は中央政権の動きにも目を配り、豊臣秀吉の小田原攻めの際には当時の当主は小勢(ほんの数名だったらしい)とはいえいち早く参加したことから、その後の奥州仕置においては本領を安堵され(ただし、「戸沢三十五城」と称された門屋城を含む城の破却を命じられた)、関ヶ原の戦いにおいては徳川家康に味方し、羽前の最上義光とともに豊臣方についた小野寺氏を攻めるなど、(不安は多々あるものの)徳川政権下での生き残りの道を歩んでいきました。


4.戸沢氏の常陸時代(小川城、松岡城)

 江戸に徳川幕府が誕生したとき、江戸にほど近い常陸国の水戸に佐竹氏がおりました。佐竹氏は約50万石を領する大大名ですが、関ヶ原の合戦では豊臣方につきました。徳川政権にとって、江戸の近くに自分に味方しない大大名がいることが許せないのは明白。その佐竹氏の転封先として選ばれたのが羽後国でした。羽後の由利郡を除く約20万石が佐竹氏の領地となり、その地にいた徳川方についた小大名たちが入れ替わりに常陸国に転封し、その中に戸沢氏もいました。
 戸沢氏はとりあえず「小川城 」(現在の小美玉市小川地区。小川小学校が本丸跡)に入城します。戸沢氏が賜った領地のうち最も江戸に近い城という理由でしょうが、いろいろと問題があったのでしょう。小川城からかなり北にある「龍子山城」(いずれ登る予定)の麓(なお、江戸時代にはよくあることですが、領地があちこちに飛び地しており、この地も同じです)に平城を築きそこに移り、「松岡城 」と改称ました。


5.戸沢氏の最上郡への転封と、外様から譜代への格上げ(新庄城)

 関ヶ原の合戦以降、戸沢氏は徳川政権下で生き残りましたが、外様の、しかも小大名であることに変わりはなく、生き残り続けるのに不安があることは、当時の幕府の「外様大名は可能な限り取り潰す」方針から明らかでした。そのため、当時の藩主戸沢政盛は徳川四天王と言われた鳥居氏(領地が近かった)との姻戚関係を結びました。
 さて、その頃、羽州に57万石を領する大大名、最上氏がおりましたが、その中興を支えた最上義光の死後、家中は争いが絶えませんでした。その結果、幕府は領地の没収を決定し、その後に奥羽の押さえとして譜代大名を配置することとしました。飽海郡、田川郡には酒井氏、村山郡には鳥居氏です。そして鳥居氏との姻戚関係がある戸沢氏が最上郡6万石への加増転封となりました(新庄市史によれば、飽海郡8万石の可能性もあったようです)。なお、そのしばらく後には、戸沢氏は外様でありながらも、天下普請などの幕府への貢献が認められて譜代格としての扱いを受けるようになります。
 戸沢氏に話を戻します。戸沢政盛は当地の要害の一つである「鮭延城」(そのうち写真をUPします)にまずは入りました。しかし、鮭延城は山城であり、さらに狭く、その上、羽州街道からも遠くて最上郡の統治には不便でもありました。そのため、幕府に新城築城許可の願いを出したところ新庄への築城が許され、鳥井忠正に縄張を依頼し、その縄張を元に「新庄城」が完成します。その後、羽州街道の城下への引き込みと城下町の整備を行い、最上川舟運(城からは遠いですが)と羽州街道の賑わい、新田開発、さらには採取量をごまかし幕府の直轄化を避けた谷口銀山の収益などにより、たかだか6万石の小大名の城下町とは思えない繁栄を見せたと言います。


6.新庄城落城

 戊辰戦争において、戸沢藩も奥羽越列藩同盟に参画します。しかし、幕府方は新政府に太刀打ちできず、小藩である戸沢藩は新政府へと傾いていきます。それに気付いた庄内藩は圧倒的な勢力をもって戸沢藩を攻め、新庄城は炎上し落城してしまいました。当時の藩主戸沢正実は新政府方であった羽後国佐竹氏を頼って落ち延びていきました。
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