戸(へ)を巡る
ためしに、テーマある城巡りの記録を書いてみようと思います。第二回目として、戸(へ)を取り上げてみたいと思います。
※注意点
一戸城
一戸摂津守による築城。一戸城は北館、八幡館、神明館の三館からなり、主郭は北館か。九戸政実の乱の後廃城となる。
(情報収集中)
三戸城元々、今の南部町に三戸城があった(本三戸城。訪問未定)。しかし、1539年(天文八年)に焼失したため、現在三戸城といわれる地に築城された。天険を利用した城であり、三戸南部氏の本拠として利用されたが、後に三戸南部氏(南部藩主)は盛岡城へ移っていった。
四戸城なぜ、四戸城が三戸城の南部にあるかはよく分からない。三戸と五戸の間にあった四戸氏がここに封ぜられたせいか?
五戸城(情報収集中)
六戸城(情報収集中)
七戸城(情報収集中)
八戸城八戸南部氏の居城である。
そもそも、根城南部氏の時代からかの地には館があったらしいが、整備されたのは江戸期、1664年に南部藩の支藩として八戸藩が成立した後らしい。
南部氏の庶流である九戸氏が築城、居城した城。
馬淵川、白鳥川、猫淵川に囲まれた台地上に築城されており、市街地化された部分を含めると(含めなくても)相当な規模の平山城である。本丸及び二の丸、石沢館が城址として公開されており、本丸の石垣及び堀、二の丸の堀などの遺構を見ることができる。縄張を見ると、本丸、二の丸あたりは近世的なものであるが、その周囲を独立した館が巡るあたりは古来に見られる城の印象があり、折衷的な縄張であろう。
南北朝時代、南部師行が築いた城。南朝方の奥州における拠点として期待された城である。(ただし、これは後世に作られた話であり、支城に対する根城というだけの意味合いであるという説もある)
主郭を中心によく遺構が残っており、主郭には南北朝期の根城を考証した館が復元されている。このような復元は、地域の人々にとっても、観光客にとっても歴史をより正しく知るための縁として大変よいやり方であり、歓迎すべきだと思う(言ってる本人はど素人ですが)。なお、蛇足であるが、近年はなくなったものの、城跡に模擬天守(もともと天守という建物は歴史的になかったのに、一部の人たちが(いろいろな思惑の下)コンクリートで天守閣に似た建物を作って城跡を無残に破壊する行為、または観光目的に、当の観光客にとっては現実を知れば幻滅するような、城が存在しないところに天守閣を作るような無駄な投資をしてしまう行為の結果生まれた悲しい建物)を生み出すよりはお金はかかるものの、無駄にならない投資であるとも思う。